伊勢型紙の歴史

型紙のおこり

諸説あり、平安期、室町期など伝説に近いものがある。

型紙のおこりについてはいくつかの説があります。奈良時代に孫七という人がはじめたという伝説や、子安観音の和尚が、虫食いの葉を見て型紙を思いついたという伝説や、平安時代には、型売り業者がいたといわれていたり、応仁の乱の時に京都から逃れてきた型彫り職人が型彫りの技術を伝えたという説など、いくつもの伝説や言い伝えがありますが、特定できる説はなく解明されていません。しかし、もともと白子には、和紙も型染もなかったため、京都との結びつきや紀州からの伝搬など、他の地域との関連を考える説が多くあります。

江戸時代の発展

紀州藩の保護を受けて大きく発展、小紋の発達

江戸時代に入ると、白子は紀州藩の天領になります。そして、伊勢型紙は紀州藩の保護を受けて発展していきます。このころ武士の裃に型染がもちいられ、その小紋はどんどん細かくなっていきます。型を彫る職人と染める職人の協同で、発展をしていったといわれています。また型売り業者は株仲間を組織して、紀州藩の保護を背景に全国各地に型紙を売り歩きました。その結果全国的に伊勢型紙はひろまりました。

明治からの流れ

株仲間の解散、繁盛する時期もあれば、戦争で打撃を受けることも

明治時代になって、江戸時代に組織されていた株仲間は解散します。近代化の流れをうけて、衣服の文化も変わっていきますが、消長をくりかえしています。しかし、太平洋戦争で大きな打撃を受けて、型紙業者がほとんどいなくなります。

終戦後に国内の復興が進むと、また着物の需要が増えていきます。型紙業者も戻っていき、昭和40年代にピークをむかえます。そして現代の、新しい技術の普及によってだんだんと型紙の需要は減っていきました。

現代の型紙

着物離れが進み、技術を保存する方向で進む

現代では着物の需要が減りました。また新しい技術を用いて染色するために、型紙の需要が減っています。そのため型紙業者も減っていっています。しかし、伝統的工芸品(用具)である伊勢型紙の技術を伝えていくために、技術保存会が立ち上がりました。

また新しい活用法を模索しており、照明器具などへの応用や、建築建具に用いるなどの活用を図っています。

年号 西暦 記事
推古15 AD607 法隆寺の染織遺品は、この頃を中心に約100年のものが多い。
大宝元 701 礼服、朝服、制服定める。縫殿寮、縫部司内染司を置く
(大宝律令)
和胴4 711 桃文司を伊勢ほか21ヶ国に派遣、錦織技術を拡大する。
天平20 748 白子山、子安観音寺が創立されると、伝えられる。
天平勝宝4 752 正倉院の染織品は主にこの頃のもの。
「富久絵の紙」に型紙を使用。
延暦13 794 この頃が京染のはじめと思われる。
延暦18 799 この頃伊勢白子に型紙業者4名いた(形売共年数暦招帳)
承徳元 1079 この頃伊勢白子に紺屋型売商人が20名いた。
正和元 1312 この頃伊勢白子に型売商人が50名いた。
文正2頃 1467 中田四朗の説によると、この頃、京都方面から型紙技術伝来したものと推定されている。
天正6 1578 上杉謙信、景勝所用の小袖や紋付小紋帷子が上杉神社に所蔵されている。
天正18 1590 秀吉拝領の辻が花胴服はこの頃の作である。
文禄4 1595 寺家、白子の型紙業者127人が当時の奄芸郡上野城主分部氏の保
護を受けるように陳情する。
慶長8 1603 家康所用の「小花文小紋染胴服」が日光東照宮に所蔵されている。
元和5 1619 白子寺家村が紀伊大納言紀州藩初代領主頼宣の所領となる。
(白子型紙の保護、奨励策紀州藩によってなる。)
元和6 1620 紙本着屏風(職人尽絵)狩野吉信描く。
元和7 1621 徳川頼宣(紀州藩初代藩主)入部2年後特権的な行商を行うこと
ができるよう型売業者が願い出る。
元和8 1622 「御絵符」「駄賃帳」を下付される。これを行商に利用する。(こ
の頃の残っている型紙より糸入れ技術がすでに行われていること
がわかる。
寛永11 1634 白子に紀州侯の御殿が建立され、代官所力般置される。この頃、松阪・津などの伊勢商人が江戸に進出する。これに伴い白子回船も盛んになる。
天和3 1683 奢修禁止令が出され、型染の流行が始まる。
元禄2 1689 現存する古い型紙の中に「柿渋密着法」による堅牢な型紙がみら
れる。
元禄5 1692 江島村指出帳に「形屋四人」(型彫職人が4人いた)と書かれて
いる。
元禄11 1698 友禅染が流行する。
享保元 1716 享保の改革、紀州領江島村が天領(旗本、小笠原氏)となる。
宝暦3 1753 型売業者総計138人が株仲間として正式に認められる。鑑礼が下
付される。内訳(本株一寺家村型売株大仲間90人、白子村型売株
大仲間37人、枝株一江島村大仲間ll人)「御絵符」「駄賃帳」を補
強するために「通り切手」制を創始する。
寺家、白子両村の庄屋が株仲間を規制する。村法を作り、その遵
守を制約させる。
宝暦4 1754 御定賃銭拒否事件が起る。型売株仲間「乍恐以口上書奉願上候」として嘆願書を提出する。「通り切手」が改革される。
宝暦9 1759 「卯年、小道具値段控」国行仲間が協定の型価格を設定する。
明和元 1764 型売仲間に対し、旅行中に限り苗字、帯刀が許される。
明和5 1768 「形売共年数年暦控帳」(寺尾家蔵)が記される。
寛政元 1789 江島村の型売商入が枝株として両村の株仲間体制に入る。
寛政2 1790 寛政の改革を達成するため紀州藩の国産である白子、寺家両村の
型紙を藩財政補填として奨励する。
寛政9 1797 型売仲間の総寄合で型彫職人に関する問題が評議され、白子・寺
家両村の型売株仲間は、白子、寺家両村の型彫り職人以外に型注
文しないことと決める。
文政6 1823 大消費地江戸への出稼株12人を認める。型彫り職人は寺家村185
人、白子村23人、計208人。
文政9 1826 「職人相定帳」一型彫り職人の株仲間の規定ができる。(株仲間
が組織される)寺家村184人、白子村23人江島村若干。江戸出稼
ぎ株仲間が仲間に編入され、再び紀州の行商鑑札が交付される。
天保5 1834 紀州藩は両村型売株仲間の調整を行う。型屋150軒。天保の改革。
天保3 1841 天保の改革が始まり、幕府は問屋仲間を禁じたため、これに関連して白子港の回船業は、衰退に向かう。
嘉永5 1852 「新通り切手」と「相対雇入馬帳」が交付される。「相対賃」を
支払うことが明記される。
白子代官所両村型売り株仲間の規定を明示。
明治元 1868 明治維新
明治2 1869 紀州藩が藩制の改革を断行し、白子代官は白子民政局と改められ
る。鑑札は無効となる。
明治4 1871 廃藩置県、白子、寺家両村は和歌山県管轄、同県内の株仲間は廃
止されたが両村の型売株仲間は黙認の形で存続する。冥加金制が
廃止「紺屋形商税金」となる。
明治5 1872 「壬申戸籍」白子村は約680軒、寺家村は約40軒。
明治6 1873 営業自由の原則により、株仲間解散する。
明治8 1875 この頃より北村庄之助等による渋の改良が始まる。
明治10 1877 この頃、北村治兵衛により「室枯らし」が考案される。
明治13 1880 この頃、北村治兵衛氏により、型地紙を室で煙煙する室入煙煙法
が発明される。
型紙製造販売のため、株式組織の会杜ができる。株仲間解体。業界の振興策として、共同販売を目的とする「竈賑社」設立(1882年解散)。
明治14 1881 『竈賑社規則条例書』によると、「竈賑社」に加入した白子・寺家両村の型売り商入は52人であった。
明治30 1897 白子型紙業組合を創立(後の伊勢型紙業連合組合は型地紙製造部、
彫刻部、地方販売部、中継部、中糸部)
明治35 1902 「伊勢型紙組合販売入売場分区簿」によると両村の型売商入は40
人。
白子町立工業徒弟学校創立(後の白子工業学校)(夜間高校で三
年制)白子で「図案研究会」が作られる。
明治42 1909 「白子町立工業徒弟学校一覧」によると両村の型売商人40人、型
彫職人198人、型地紙製造17人(日露戦争後の影響もあって増加)
大正10 1921 富山県高岡市染色業者、井波義兵衛氏型紙紗張技術発案(特許)する。(紗張り以前には、寺家に40軒の地紙店があったという。これより二枚型糸入れの必要がなくなる)
大正12 1923 組合名を「伊勢型紙業組合」と改称する。この年、関東大震災。これにより業界に好況が続く。
昭和元 1926 県商工業法第9条(直接取引不許、独占企業)反対デモを彫刻業者のみで行う。白子町立工業徒弟学校を白子町立学校と改称。
昭和2 1927 (2~3年頃)鈴鹿地区でも紗張りが急速に広まる。
昭和3 1928 『形紙の話』に、型彫り職人350戸、型地紙業者20戸、販売業者50戸と記載され、明治末頃と比べて数的にかなり増加し、復活の兆しが見られる。
昭和4 1929 伊勢型紙業組合「型紙之起源と沿革」を発行する。(地紙製造29人、地方販売部員23人、東京型紙業組合員29人の他京都に14店あって白子付近に仕入部をもつ)
昭和5 1930 紗張りが自由になる。生糸暴落、世界恐慌深刻化する。
昭和10 1935 この頃1,000人以上の彫刻者がいたという。
昭和16 1941 太平洋戦争始まる。戦時中の業界は、衰退の一途をたどる。衣料関係品の統制により染色業者の転業がすすむ。地紙の公定価格が三重県公報に告示される。
昭和17 1942 鈴鹿市制実施。繊維製品配給消費統制規制公布
昭和21 1946 伊勢染型紙彫刻同友会結成される。敗戦から業界復活。「伊勢型紙彫刻組合」、その後
「伊勢型地紙製造組合」、「日本注染型紙協同組合」、「伊勢染型紙販売組合」などが結成され、後年、これらを連合体として「伊勢染型紙業連合組合」が成立した。
昭和22 1947 大阪で「日本注染和晒協同組合」創立される。その型紙の製作を白子で引き受ける。鈴鹿市立工業学校(乙種)戦後学校統廃合により閉校となる。この頃、更生染普及する。
昭和24 1949 この頃、日本でスクリーン型の実用化がはじまる。取引高税、事業税反対等、難題がおきる。
昭和26 1951 綿製品の統制解除される。
昭和27 1952 「鈴鹿市大観」によると、型紙業198人、うち型地紙20人、1億2千万円、彫刻150人、6千万円文化財保護委員会により伊勢型紙彫刻が無形文化財として指定される。(3月)
昭和28 1953 伊勢染型紙納税貯蓄組合設立。この頃白子に写真型が入る
昭和30 1955 南部芳松、六谷紀久男、児玉博、中島秀吉、中村勇二郎、城ノロみゑの6名が重要無形文化財技術保持者に認定される。文化財保護委員会が小紋技法を保持する人として小宮康助氏を認定する。鈴鹿市「染型紙の話」発刊される。(地紙業者20、販売業者50、彫刻業者350)伊勢染型紙組合、東京でネクタイ展を開催
昭和31 1956 三重県職業補導所設置される。三重県染型紙彫刻技師者労働組合が伊勢型紙彫刻組合より分離独立する。
昭和32 1957 日本注染形紙協同組合設立。伊勢染形紙組合、32~34年 東京・大阪・浜松で創作中型展示会開催。伊勢染形紙組合より紗張部が分離する。
昭和38 1963 鈴鹿市による伊勢型紙伝承者養成事業(5年1期)が始まる。同時に資料収集にも着手。
昭和40 1965 仲見秀雄氏、寺尾家所蔵文書を利用して研究、その一部を三重史学会において発表する。
昭和43 1968 京都博物館「染の型紙」発刊される。
昭和44 1969 和装ブームで着物の需要がピークとなる。
昭和45 1970 中田四郎編「伊勢型紙の歴史」発刊される。
昭和48 1973 合成紙が型地紙に代わる新製品として登場、普及する。伊勢型紙彫刻組合「彫刻」発刊。
昭和48 1973 (彫刻者179名、平均年令48.2才、家族従事者46名、見習者8名)
昭和49 1974 伝統的工芸品産業振興法制定。
三重県教育委員会から「伊勢型紙を中心とした民俗資料緊急調査
報告書」発刊される。
昭和53 1978 伝統的工芸品産業振興法の改正により、指定のための産地診断開
始される。彫刻組合員163名(組合報彫刻)
昭和54 1979 三重県が「伊勢型紙業界産地診断報告書」発行。
昭和57 1982 1月12日「伊勢型紙地紙製造組合」(紙)「日本注染型紙協同組合」(ゆかた)「伊勢染型紙販売組合」(着物)を一つに統一して「伊勢形紙協同組合」が設立される
昭和58 1983 伊勢形紙が通商産業大臣の伝統的工芸品(用具)に指定
鈴鹿市伝統産業会館が開館する。
平成3 1991 11月28日「伊勢型紙技術保存会」が組織される。
平成4 1992 「伊勢型紙技術保存会」が三重県無形文化財に指定される。
平成5 1993 「伊勢型紙技術保存会」が重要無形文化財保持団体に指定される。伊勢形紙展(後の伊勢形紙まつり)が開催される(~2009)
平成9 1997 伊勢型紙資料館が開館する。
平成10 1998 全国重要無形文化財保持団体協議会鈴鹿市大会を開催する。
平成11 1999 伊勢型紙業連合組合が廃止される。
平成21 2009 「伊勢型紙産地協議会」が組織される。
平成21 2009  地域団体商標「伊勢型紙」を取得する。
平成22 2010 「伊勢形紙協同組合」が鈴鹿市伝統産業会館指定管理者に指定される